「いいんじゃないの?」
ビール片手にお笑い番組を観ながらそうこたえる和也。
キッチンで洗い物をしていた恭子は、思わずため息をついた。
「パパったらそんな簡単に…」
「いいじゃんピアノ。陽菜から言うなんて珍しい、やらせればいいじゃん」
「うーん…」
既にテレビに夢中になっている和也に、さらにため息が出た。
常夜灯に照らされた娘の陽菜の部屋。
恭子はそっとタンスに洗濯物をしまいながら、
既に寝息を立てている陽菜の顔を見つめた。
それは先週の出来事だった。
陽菜が宿題をしながらぽつりとつぶやいた。
「ピアノ、習いたいなあ」
今までわがままらしいわがままを1度も言った事の無い陽菜からの、
初めての遠回しなお願い。
陽菜は月曜に塾、木曜にはスイミングスクールに通っている。
陽菜が頑張りさえすれば、もう1つ習い事を増やすことは不可能ではない。
でも陽菜はもう、小学 6 年生だった。
陽菜の周りでピアノを習っている子は、たいてい幼稚園からスタートしている。
今からはじめても、その子たちに追いつけるとは思えない。
そう、今から始めたって…。
陽菜の願いをかなえてやりたい。
でも陽菜につらい思いはさせたくない。
恭子はちくりと痛む胸の痛みに気付かないふりをした。
水曜日。
仕事が少し早く終わった恭子は夕飯の買い出しをしていた。
いつもより時間に余裕がある分、 通りの向こうのスーパーにも立ち寄ってみようか。
そんなことを考えながら自転車を走らせていると、見慣れた後姿が目に入った。
陽菜だ。
…通学路は違う道なのに…。
思わず恭子がそっと後を付けると、陽菜は 1 軒の民家の前で立ち止まった。
周りを気にしながら、窓から中をのぞき込んでいる。
恭子がそっと近づいていくと、その民家からピアノの音色が聴こえてきた。
門扉には「ちばピアノ教室」と書かれたかわいらしい看板。
陽菜の視線の先、窓の向こうでは、
恐らく先生であろう女性と小さな女の子が楽し気にピアノを弾いていた。
それを見つめる陽菜の顔は 今まで恭子が見たことのないくらいに、きらきらと輝いている。
また、ちくりと胸が痛んだ。
恭子は思い出した。
この胸の痛みは、かつて自分がしまい込んだ胸の痛みであることを。
当時中学 1 年生だった恭子は、 帰宅途中にある小さなバレエ教室をのぞくのが好きだった。
美しく束ねられた髪の毛、しなやかな動き、真剣な表情。
自分も踊ってみたかった。でも、恭子はしなかった。
今から始めたって、同年代の子には追い付けないから。
今から始めたって…。
何もせずに諦めた、あの時のあの胸の痛み。
胸の奥にしまい込んで気づかないふりをしてきた、あの時の後悔。
陽菜の後姿を見て恭子は思った。
ああ、あの子は、私だ。
季節は変わり、夏になった。
陽菜は、毎週水曜日にあのピアノ教室に通っている。
リビングの隅に置かれたクラビノーバで
毎日毎日、本当に楽しそうに練習をしている。
仕事が休みのその日、
恭子はバレエ教室の待合室にいた。
「おとなクラス」と貼られた大きなガラスの壁の向こうでは、
様々な年代の女性たちが、真剣に、しかし楽しそうにバーレッスンしている。
「では、こちらをどうぞ」
受付の女性から手渡されたのは、真新しいバレエシューズ。
恭子は思わず、そのバレエシューズを見つめ微笑む。
女性に促され教室に入る恭子の足取りは軽やかだった。