朝まで降り続いた雨が上がり、
曇天の下、ガラス窓に残る水滴が風にわずかに揺れている。
静かなクラシック音楽の流れる部屋で、
綾子はその水滴を見つめ息を整えていた。
6月の花嫁。
緑の茂る庭のある小さな教会で、愛する人のお嫁さんになる。
それは綾子の幼い頃からの密かな憧れだった。
綾子は全身鏡に映る自分の姿を見つめた。
我ながらよく似合うAラインのドレスに、シックな髪型。
こだわりのブーケ、パールのイヤリング。
時間をかけて考え、打ち合わせ、作り上げた今日という日の全てが、 ここにある。
なのに、どうしてこんなに心がざわざわするんだろう。
部屋の隅に置かれた、きれいに揃えられた白いハイヒールを見る。
綾子の足元は、まだスリッパのままだ。
「失礼します」
静かに扉を開け入ってきたのは、
ヘアメイクを担当してくれている美咲だった。
「もうすぐお時間なので、お化粧、お直ししますね」
美咲は手際よくメイク道具を広げながら、綾子をちらりと見て尋ねた。
「緊張、されてますか?」 綾子は恥ずかしそうに答える。
「わかります?」
苦笑いする綾子の口紅を、笑顔で整える美咲。
その動きは心なしかゆっくりとしていて、美咲の優しさを感じた。
「緊張もだけど、不安…もあるかな」
「不安、ですか?」
「ええ。…マリッジブルー…かな」
そう言って、綾子は恥ずかしそうに笑い自分の足の指を見つめた。
美咲は微笑みながら綾子の髪を整える。
綾子はドレッサーに置かれた婚約指輪を見つめた。
あの時の、あの嬉しかった気持ちはどこへ行っちゃったんだろう。
小さくため息をつく綾子を見て、美咲が口を開いた。
「以前ここで挙式された新婦様がおっしゃてたんですけどね、結婚って もちろん大きな節目だけど、スタートでもゴールでもないって」
「…?」
「二人の人生が結婚でひとつになることはない。ふたつの人生が横並び になるだけ。一緒に変化していくだけ。そうおっしゃってましたよ」
「横並び、か…」
メイク道具をしまいながら窓の外に目をやった美咲が、ふと笑った。
綾子も視線につられ、立ち上がり中庭を見下ろすと、 そこには真っ白なタキシード姿の正吾がいた。
一人、手の平に何度も「人」という字を書き、そして飲み込んでいる。
綾子はその姿に思わず吹き出してしまった。
「正吾ったら…」
「優しそうな新郎様ですね」 美咲の言葉に、綾子は笑顔で頷いた。
いつの間にか雲がはれ、
日の光を受けた婚約指輪の誕生石がきらきらと輝いている。
綾子は、あの日のプロポーズの言葉を思い出した。
『一緒に生きてみようよ。きっと楽しいよ』
これからの人生を共に歩もうと決めた愛しい人。
気負わなくていい。構えなくていい。
一緒ならきっと、ふたつの人生はきらきら輝く。
どんな変化も、この人となら。
時計の針が11時を指した。
綾子は真っ白いハイヒールに足を通す。
少し広くなった視界としゃんと伸びた背筋が気持ちいい。
この一歩から、一緒に変わっていこう。